「すべてがあるがままでよい
たとえ、それがどんなに理不尽に見えたとしても」
この命題を本当に導入してしまうと、もはや体系を作ることができなくなってしまう。
体系というものは、思考の一葉、感情の一葉が積み重なっていって、出来上がるものだ。
積み上がっていくためには、枝・幹といったバックグラウンドがなければならない。
「何かしらのかくあるべしを抱き」
「何かの利得を追い求めて」
「それが楽しみの発生源なので」
そういった地盤がないので、思考の葉が積み上がらず、どんどん通り過ぎては、抜け落ちていく。
さながら根無し草のようである。
2017年2月25日土曜日
癒やしのトリニティ
癒やしというものが、どういうことであるか、今日はっきりとわかった。
1.自分は、今のありのままの自分であって全然いい。
2.他者も、今のありのままの彼らであって全然いい。
3.(限られた顕在意識で見たら)一見理不尽に見えることであっても、その相は宇宙の複雑なメカニズムを通した結果として、ちゃんと合理的に作動した結果として顕れている。
1.によって、自分が自分に課す制約から、解放される。
2.によって、社会に対して自分が課す制約を、解消する。
3.には、「判断の放棄」と「宇宙に対する信頼」、この2つが同時に実現されている。
この3つを同時に心のなかで実行すると、ものすごい、かなり強力な効果が認められた。
これが、癒やしの原則なのか、と驚くぐらいの強烈な効果である。
ぜひ、毎日心のなかでこれを実現することにしよう!!
1.自分は、今のありのままの自分であって全然いい。
2.他者も、今のありのままの彼らであって全然いい。
3.(限られた顕在意識で見たら)一見理不尽に見えることであっても、その相は宇宙の複雑なメカニズムを通した結果として、ちゃんと合理的に作動した結果として顕れている。
1.によって、自分が自分に課す制約から、解放される。
2.によって、社会に対して自分が課す制約を、解消する。
3.には、「判断の放棄」と「宇宙に対する信頼」、この2つが同時に実現されている。
この3つを同時に心のなかで実行すると、ものすごい、かなり強力な効果が認められた。
これが、癒やしの原則なのか、と驚くぐらいの強烈な効果である。
ぜひ、毎日心のなかでこれを実現することにしよう!!
2017年2月11日土曜日
癒しの底にある、唯一の論理
大命題.
「レベル(階位)」という概念を持ち込むことによってのみ、ネガティブな想念・行為が生じうる。
嫉妬・怒り・蔑み・自己卑下・闘争・戦争・悲しみ・苦しみ、その他諸々のネガティブな想念・事象が、この世界が始まって以来存在し続けてきた。
それらの態様は種々様々であるが、その発生する由来は、共通している。
「欠落」という判定、に基づいている。
この「欠落」が生じうるためには、あらかじめその行動領域に「レベル(階位)」というものが設定されていなければならない。
存在の総量は一定だから、「上がる」存在がいれば、必ず「下がる」存在が出てくる。これは、全く不可避である。
まったく、これを避けることはできない。
そこで、
ネガティブな想念を救済して、それらを完璧に癒やすためには、どうすればよいのか
その最も根源的、かつ抜本的な解決策が明らかになる。
「レベル(階位)」という概念を解消する
もはや、これしかないのだ。
ただ、この論理によってのみ、根源的で、抜本的な解決がなされる。
いかなる外装をまとったにせよ、癒やしが実現されるそのとき、必ず、この論理が動作している。
あらゆる癒やしの底には、たった一つの、この論理だけしか無い。
それがなぜ唯一と言えるか?
その理由は、ちゃんと論理的に、誰にでも理解可能な形で説明しうる。
「そもそも、ネガティブな想念がどういう構造から生じているのか?」
この問いを、突き詰め、突き詰め、突き詰めて、たどり着いたその淵源の構造からして、これが唯一なのである。
「レベル(階位)」
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「欠落」→「回復」→「欠落」→「回復」
この繰り返しである。
あらゆる喜怒哀楽・快楽苦痛は、この循環運動によって生じる。
癒やしのバリエーションは、どのレベルの解消をするかによって様々に異なるものの、その奥にある本質的な論理は、たったひとつである。
_____________
真なるもののみを愛し、偽なるものを遠ざけようとする
だからこそ、永遠に答えが見つからない。
善なるもののみを愛し、悪なるものを成敗しようとする
だからこそ、いつまでたっても争いがなくならない。
美なるものを愛し、醜なるものを憎もうとする
だからこそ、退廃や嘘ごまかしの絶えることがない。
片手落ちで愛するような、ケチな愛し方をしてはいけない
すべてを、包み込んで、あらゆるものを抱きしめない限り、永遠に心が安らぐことはない。
すべてを包容し
私は、私であることに成功した。
2016年12月10日土曜日
真我(ブラフマン)のトリニティ
1.“それ(真我)”は、いつでも、どこでも、ある。 (普遍性)
2.“それ(真我)”は、すべてのものに与えられている。 (平等性)
3.“それ(真我)”は、変わることはない。 (永遠性)
この、真我(ブラフマン)の三原則を厳密に遵守した結果、
シャンカラは云う︰
虚空〔のように〕、清らかで、無垢であり、純粋な叡智のみを有し、不二である〔ブラフマン〕について、アートマンである、と理解している人に、一体他のいかなるなすべきことがあると考えられるかを言え *1
『アシュターヴァクラー・ギーター』は云う︰
幾生にもわたって
あなたは骨の折れる仕事にこつこつと精を出し
身体と心と言葉を苦しめ
押さえつけてきた
もうじゅうぶんだ
やめなさい
今!!! *2
1-A.(“それ”は、いつでも、どこでも、ある。)
よって、一体どこへ向かって歩む必要性があるのか?
(普遍性→行為原因の否定)
2-A.(“それ”は、すべてのものに与えられている。)
よって、どうして新たに獲得するべく“努力“をする必要性があるのであろうか?
(平等性→行為の否定)
3-A.(“それ”は、変わることがないの。)
よって、どんな行為をしても、減りもしなければ、増えもしない。
(永遠性→行為結果の否定)
“それ”の永遠性と、平等性と、普遍性から導き出したら、
たしかに、そのような結論になってしまうしかないのだ・・・。
1’ーA.“それ(真我)”は、ある特定の条件の下でしか存在できない。 (普遍性の欠如)
という想念によって覆われたとき、それはあらゆる求める行動となって現れる。
「ある特定の教団やセミナーへ行かなければならない」
「あの聖地へ行かないと目覚められない」
「この特定の行法を行わないと、覚醒することはできない」
・
・
・
まったくそのヴァリエーションには限りがない。
2’ーA.“それ(真我)”は、すべてのものには、与えられていない。 (平等性の欠如)
という想念によって覆われたとき、それはすべてではなく、特定の存在を顕彰・崇拝・依存する行動となって現れる。
「ある特定の教団やセミナーこそが」
「あの聖地や覚醒者こそが」
「この特定の行法のみが」
・
・
・
まったくそのヴァリエーションには限りがない。
3’ーA.“それ(真我)”は、増えたり、減ったりし、最後には滅する。 (永遠性の欠如)
私が減るとみなすやいなや、不安・怒り・恐れが沸き起こり
私が増えるとみなすやいなや、優越感の甘い毒にひたる
「この特定の行法をやり続けないと、地獄に転落してしまう」という思いが生じ、“修行”は止むことがない。
・
・
・
まったくそのヴァリエーションには限りがない。
<行為原因ー行為者>という概念にまつわるエトセトラが、完膚なきまでに除却されてしまう。
真我(ブラフマン)の三原則を忠実に構成すると、ほんとうに、そうなってしまう。
うむ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・完璧だ。
もう、うんともすんとも言えない。
完膚なきまでに、完結している。
完全だ・・・・・・・・・・・・・。
*1: シャンカラ『ウパデーシャ・サーハスリー』,前田専学訳 (岩波文庫),p.64,I.韻文篇 第十四章-夢と記憶 三一
*2: 『アシュターヴァクラー・ギーター 真我の輝き』,トーマス・バイロン英訳,福間巌訳 (株式会社ナチュラルスピリット),p.84,10.欲望-8
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