1.“それ(真我)”は、いつでも、どこでも、ある。 (普遍性)
2.“それ(真我)”は、すべてのものに与えられている。 (平等性)
3.“それ(真我)”は、変わることはない。 (永遠性)
この、真我(ブラフマン)の三原則を厳密に遵守した結果、
シャンカラは云う︰
虚空〔のように〕、清らかで、無垢であり、純粋な叡智のみを有し、不二である〔ブラフマン〕について、アートマンである、と理解している人に、一体他のいかなるなすべきことがあると考えられるかを言え *1
『アシュターヴァクラー・ギーター』は云う︰
幾生にもわたって
あなたは骨の折れる仕事にこつこつと精を出し
身体と心と言葉を苦しめ
押さえつけてきた
もうじゅうぶんだ
やめなさい
今!!! *2
1-A.(“それ”は、いつでも、どこでも、ある。)
よって、一体どこへ向かって歩む必要性があるのか?
(普遍性→行為原因の否定)
2-A.(“それ”は、すべてのものに与えられている。)
よって、どうして新たに獲得するべく“努力“をする必要性があるのであろうか?
(平等性→行為の否定)
3-A.(“それ”は、変わることがないの。)
よって、どんな行為をしても、減りもしなければ、増えもしない。
(永遠性→行為結果の否定)
“それ”の永遠性と、平等性と、普遍性から導き出したら、
たしかに、そのような結論になってしまうしかないのだ・・・。
1’ーA.“それ(真我)”は、ある特定の条件の下でしか存在できない。 (普遍性の欠如)
という想念によって覆われたとき、それはあらゆる求める行動となって現れる。
「ある特定の教団やセミナーへ行かなければならない」
「あの聖地へ行かないと目覚められない」
「この特定の行法を行わないと、覚醒することはできない」
・
・
・
まったくそのヴァリエーションには限りがない。
2’ーA.“それ(真我)”は、すべてのものには、与えられていない。 (平等性の欠如)
という想念によって覆われたとき、それはすべてではなく、特定の存在を顕彰・崇拝・依存する行動となって現れる。
「ある特定の教団やセミナーこそが」
「あの聖地や覚醒者こそが」
「この特定の行法のみが」
・
・
・
まったくそのヴァリエーションには限りがない。
3’ーA.“それ(真我)”は、増えたり、減ったりし、最後には滅する。 (永遠性の欠如)
私が減るとみなすやいなや、不安・怒り・恐れが沸き起こり
私が増えるとみなすやいなや、優越感の甘い毒にひたる
「この特定の行法をやり続けないと、地獄に転落してしまう」という思いが生じ、“修行”は止むことがない。
・
・
・
まったくそのヴァリエーションには限りがない。
<行為原因ー行為者>という概念にまつわるエトセトラが、完膚なきまでに除却されてしまう。
真我(ブラフマン)の三原則を忠実に構成すると、ほんとうに、そうなってしまう。
うむ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・完璧だ。
もう、うんともすんとも言えない。
完膚なきまでに、完結している。
完全だ・・・・・・・・・・・・・。
*1: シャンカラ『ウパデーシャ・サーハスリー』,前田専学訳 (岩波文庫),p.64,I.韻文篇 第十四章-夢と記憶 三一
*2: 『アシュターヴァクラー・ギーター 真我の輝き』,トーマス・バイロン英訳,福間巌訳 (株式会社ナチュラルスピリット),p.84,10.欲望-8
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