2016年12月10日土曜日

真我(ブラフマン)のトリニティ


1.“それ(真我)”は、いつでも、どこでも、ある。 (普遍性)

2.“それ(真我)”は、すべてのものに与えられている。 (平等性)

3.“それ(真我)”は、変わることはない。 (永遠性)


この、真我(ブラフマン)の三原則を厳密に遵守した結果、

シャンカラは云う︰

虚空〔のように〕、清らかで、無垢であり、純粋な叡智のみを有し、不二である〔ブラフマン〕について、アートマンである、と理解している人に、一体他のいかなるなすべきことがあると考えられるかを言え *1

『アシュターヴァクラー・ギーター』は云う︰

幾生にもわたって
あなたは骨の折れる仕事にこつこつと精を出し
身体と心と言葉を苦しめ
押さえつけてきた

もうじゅうぶんだ
やめなさい
今!!! *2


1-A.(“それ”は、いつでも、どこでも、ある。)
 よって、一体どこへ向かって歩む必要性があるのか? 
 (普遍性→行為原因の否定)

2-A.(“それ”は、すべてのものに与えられている。)
 よって、どうして新たに獲得するべく“努力“をする必要性があるのであろうか? 
 (平等性→行為の否定)

3-A.(“それ”は、変わることがないの。)
 よって、どんな行為をしても、減りもしなければ、増えもしない。
 (永遠性→行為結果の否定)



 “それ”の永遠性と、平等性と、普遍性から導き出したら、

 たしかに、そのような結論になってしまうしかないのだ・・・。





1’ーA.“それ(真我)”は、ある特定の条件の下でしか存在できない。 (普遍性の欠如)
 
 という想念によって覆われたとき、それはあらゆる求める行動となって現れる。

 「ある特定の教団やセミナーへ行かなければならない」
 「あの聖地へ行かないと目覚められない」
 「この特定の行法を行わないと、覚醒することはできない」
 ・
 ・
 ・
 まったくそのヴァリエーションには限りがない。



2’ーA.“それ(真我)”は、すべてのものには、与えられていない。 (平等性の欠如)

 という想念によって覆われたとき、それはすべてではなく、特定の存在を顕彰・崇拝・依存する行動となって現れる。

 「ある特定の教団やセミナーこそが」
 「あの聖地や覚醒者こそが」
 「この特定の行法のみが」
 ・
 ・
 ・
 まったくそのヴァリエーションには限りがない。



3’ーA.“それ(真我)”は、増えたり、減ったりし、最後には滅する。 (永遠性の欠如)

 私が減るとみなすやいなや、不安・怒り・恐れが沸き起こり
 私が増えるとみなすやいなや、優越感の甘い毒にひたる
 「この特定の行法をやり続けないと、地獄に転落してしまう」という思いが生じ、“修行”は止むことがない。
 ・
 ・
 ・
 まったくそのヴァリエーションには限りがない。



 <行為原因ー行為者>という概念にまつわるエトセトラが、完膚なきまでに除却されてしまう。


 真我(ブラフマン)の三原則を忠実に構成すると、ほんとうに、そうなってしまう。




 うむ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・完璧だ。




 もう、うんともすんとも言えない。


 完膚なきまでに、完結している。


 完全だ・・・・・・・・・・・・・。




*1: シャンカラ『ウパデーシャ・サーハスリー』,前田専学訳 (岩波文庫),p.64,I.韻文篇 第十四章-夢と記憶 三一

*2: 『アシュターヴァクラー・ギーター 真我の輝き』,トーマス・バイロン英訳,福間巌訳 (株式会社ナチュラルスピリット),p.84,10.欲望-8


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