2018年6月30日土曜日

無の受け入れがたさ

夜中の3時か4時頃まで夜更かしをしているときに、それは起こる。
突然、誰からも見放され、ただ立ち尽くすしかない、根源的な不安が姿を見せるときがある。
自分が完全に見放され、無の中に消え入りそうな予感がする、非常に心細い状態。
このときに見える孤独の姿を、まだ自分は正視しきれていない。
私は、どうしても逃げてしまうのだ。
やはり、まだまだ身心の殻が手放せない、未熟な状態なのだろう。

ただ、この経験を通して分かったことがある。
日中は、視覚情報や記憶の分厚い層などが心を覆っていて、この根源的な不安が全く見えなくなってしまっているのだ、ということを。

いつか、真正面から対面しなければならないのであろう。

それと対面することは、すごく不安で、恐ろしい。
日中の表面意識では「大丈夫だ」と思っていても、いざその剥き出しの姿を目にすると、耐えきれない。
無意識レベルの抵抗がいかに凄まじいかを見せつけられた思いがする。

それと向き合うよりは、日中の意識のままフラフラ楽しく生きてる方が、よっぽど楽しくていい。真のチャンスから逃げ出し続けている。

「こんな自分が苦悩の輪廻から抜け出せるのだろうか」

と悩むこともある。

「どんな弱い者であろうと、どんな悪人であろうと、全員が必ず救われる。全員に平等に救いがもたらされる」

と信じると、フッと心が軽くなった。

ただその言葉を信じ、歩むしかない。
どこへ向かうのか、私は知らない。
わけも分からず、ただあり続けるしかない。

2017年4月2日日曜日

根無し草

「すべてがあるがままでよい
 たとえ、それがどんなに理不尽に見えたとしても」

 この命題を本当に導入してしまうと、もはや体系を作ることができなくなってしまう。

 体系というものは、思考の一葉、感情の一葉が積み重なっていって、出来上がるものだ。

 積み上がっていくためには、枝・幹といったバックグラウンドがなければならない。

 「何かしらのかくあるべしを抱き」

 「何かの利得を追い求めて」

 「それが楽しみの発生源なので」

 そういった地盤がないので、思考の葉が積み上がらず、どんどん通り過ぎては、抜け落ちていく。

 さながら根無し草のようである。

2017年2月25日土曜日

癒やしのトリニティ

癒やしというものが、どういうことであるか、今日はっきりとわかった。

1.自分は、今のありのままの自分であって全然いい。

2.他者も、今のありのままの彼らであって全然いい。

3.(限られた顕在意識で見たら)一見理不尽に見えることであっても、その相は宇宙の複雑なメカニズムを通した結果として、ちゃんと合理的に作動した結果として顕れている。



 1.によって、自分が自分に課す制約から、解放される。

 2.によって、社会に対して自分が課す制約を、解消する

 3.には、「判断の放棄」と「宇宙に対する信頼」、この2つが同時に実現されている。

 この3つを同時に心のなかで実行すると、ものすごい、かなり強力な効果が認められた。

 これが、癒やしの原則なのか、と驚くぐらいの強烈な効果である。

 ぜひ、毎日心のなかでこれを実現することにしよう!!


2017年2月11日土曜日

癒しの底にある、唯一の論理

大命題.

「レベル(階位)」という概念を持ち込むことによってのみ、ネガティブな想念・行為が生じうる。



嫉妬・怒り・蔑み・自己卑下・闘争・戦争・悲しみ・苦しみ、その他諸々のネガティブな想念・事象が、この世界が始まって以来存在し続けてきた。


それらの態様は種々様々であるが、その発生する由来は、共通している。

「欠落」という判定、に基づいている。


この「欠落」が生じうるためには、あらかじめその行動領域に「レベル(階位)」というものが設定されていなければならない。

存在の総量は一定だから、「上がる」存在がいれば、必ず「下がる」存在が出てくる。これは、全く不可避である。


まったく、これを避けることはできない。



そこで、

ネガティブな想念を救済して、それらを完璧に癒やすためには、どうすればよいのか

その最も根源的、かつ抜本的な解決策が明らかになる。


「レベル(階位)」という概念を解消する



もはや、これしかないのだ。

ただ、この論理によってのみ、根源的で、抜本的な解決がなされる。

いかなる外装をまとったにせよ、癒やしが実現されるそのとき、必ず、この論理が動作している。

あらゆる癒やしの底には、たった一つの、この論理だけしか無い。



それがなぜ唯一と言えるか?

その理由は、ちゃんと論理的に、誰にでも理解可能な形で説明しうる。


「そもそも、ネガティブな想念がどういう構造から生じているのか?」


この問いを、突き詰め、突き詰め、突き詰めて、たどり着いたその淵源の構造からして、これが唯一なのである。


「レベル(階位)」

  |

「欠落」→「回復」→「欠落」→「回復」


この繰り返しである。

あらゆる喜怒哀楽・快楽苦痛は、この循環運動によって生じる。

癒やしのバリエーションは、どのレベルの解消をするかによって様々に異なるものの、その奥にある本質的な論理は、たったひとつである。


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真なるもののみを愛し、偽なるものを遠ざけようとする

だからこそ、永遠に答えが見つからない。


善なるもののみを愛し、悪なるものを成敗しようとする

だからこそ、いつまでたっても争いがなくならない。


美なるものを愛し、醜なるものを憎もうとする

だからこそ、退廃や嘘ごまかしの絶えることがない。


片手落ちで愛するような、ケチな愛し方をしてはいけない

すべてを、包み込んで、あらゆるものを抱きしめない限り、永遠に心が安らぐことはない。


すべてを包容し

私は、私であることに成功した。



2016年12月10日土曜日

真我(ブラフマン)のトリニティ


1.“それ(真我)”は、いつでも、どこでも、ある。 (普遍性)

2.“それ(真我)”は、すべてのものに与えられている。 (平等性)

3.“それ(真我)”は、変わることはない。 (永遠性)


この、真我(ブラフマン)の三原則を厳密に遵守した結果、

シャンカラは云う︰

虚空〔のように〕、清らかで、無垢であり、純粋な叡智のみを有し、不二である〔ブラフマン〕について、アートマンである、と理解している人に、一体他のいかなるなすべきことがあると考えられるかを言え *1

『アシュターヴァクラー・ギーター』は云う︰

幾生にもわたって
あなたは骨の折れる仕事にこつこつと精を出し
身体と心と言葉を苦しめ
押さえつけてきた

もうじゅうぶんだ
やめなさい
今!!! *2


1-A.(“それ”は、いつでも、どこでも、ある。)
 よって、一体どこへ向かって歩む必要性があるのか? 
 (普遍性→行為原因の否定)

2-A.(“それ”は、すべてのものに与えられている。)
 よって、どうして新たに獲得するべく“努力“をする必要性があるのであろうか? 
 (平等性→行為の否定)

3-A.(“それ”は、変わることがないの。)
 よって、どんな行為をしても、減りもしなければ、増えもしない。
 (永遠性→行為結果の否定)



 “それ”の永遠性と、平等性と、普遍性から導き出したら、

 たしかに、そのような結論になってしまうしかないのだ・・・。





1’ーA.“それ(真我)”は、ある特定の条件の下でしか存在できない。 (普遍性の欠如)
 
 という想念によって覆われたとき、それはあらゆる求める行動となって現れる。

 「ある特定の教団やセミナーへ行かなければならない」
 「あの聖地へ行かないと目覚められない」
 「この特定の行法を行わないと、覚醒することはできない」
 ・
 ・
 ・
 まったくそのヴァリエーションには限りがない。



2’ーA.“それ(真我)”は、すべてのものには、与えられていない。 (平等性の欠如)

 という想念によって覆われたとき、それはすべてではなく、特定の存在を顕彰・崇拝・依存する行動となって現れる。

 「ある特定の教団やセミナーこそが」
 「あの聖地や覚醒者こそが」
 「この特定の行法のみが」
 ・
 ・
 ・
 まったくそのヴァリエーションには限りがない。



3’ーA.“それ(真我)”は、増えたり、減ったりし、最後には滅する。 (永遠性の欠如)

 私が減るとみなすやいなや、不安・怒り・恐れが沸き起こり
 私が増えるとみなすやいなや、優越感の甘い毒にひたる
 「この特定の行法をやり続けないと、地獄に転落してしまう」という思いが生じ、“修行”は止むことがない。
 ・
 ・
 ・
 まったくそのヴァリエーションには限りがない。



 <行為原因ー行為者>という概念にまつわるエトセトラが、完膚なきまでに除却されてしまう。


 真我(ブラフマン)の三原則を忠実に構成すると、ほんとうに、そうなってしまう。




 うむ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・完璧だ。




 もう、うんともすんとも言えない。


 完膚なきまでに、完結している。


 完全だ・・・・・・・・・・・・・。




*1: シャンカラ『ウパデーシャ・サーハスリー』,前田専学訳 (岩波文庫),p.64,I.韻文篇 第十四章-夢と記憶 三一

*2: 『アシュターヴァクラー・ギーター 真我の輝き』,トーマス・バイロン英訳,福間巌訳 (株式会社ナチュラルスピリット),p.84,10.欲望-8